2022年3月31日

保身に腐心するウィル・スミスの堕落

日頃知的ぶっていても、高踏を気取ってみても、何かの折に、いま巷で話題になっている所謂「ゴシップ」・・・俗世間の出来事について何事かを語ろうとするときに、その人物に本当の教養が備わっているかどうかが分かるのだろう。 

のっけからこんなことを書いて自分の首を絞めているようなものだが、この手の話題について書くことに慣れていない。第一わたしは、人がどう見るかは知らないが、「知的」や「高踏」であることを以て自ら任じたこともないし、自分に相応の教養があるなどとも思っちゃいない。


さて、所謂「ゴシップ」だが、29日火曜日、30日水曜日の朝日新聞朝刊に、例の(といっていいのかな?)アメリカの黒人俳優、ウィル・スミス氏のアカデミー賞授賞式会場での、司会のコメディアンに対する「平手打ち事件」が報じられていた。

29日の新聞より引用する。

アカデミー賞授賞式で俳優のウィル・スミスさんが舞台に上がり、コメディアンのクリス・ロックさんの顔を平手打ちする一幕があった。米国ではテレビ中継が一時止まる騒ぎとなった。
 ロックさんは、ドキュメンタリー部門の受賞者を発表している最中に、スミスさんの妻を指して、「(丸刈りの女性兵士が登場する)G・I・ジェーンの続編も楽しみにしている」という発言をした。スミスさんの妻の短髪をジョークにしたとみられ、直後にスミスさんが客席から舞台へ上がり、ロックさんの顔をたたいた。スミスさんの妻は脱毛症であることを公表している。
 米国での放送はその直後に止ったが、スミスさんは席に戻った後も、放送禁止用語を使いながらロックさんに「妻の名前を口にするな」と怒鳴った。
 その後スミスさんは主演男優賞を受賞。スピーチで、「(自分が)悪口を言われても、自分が軽蔑されることに慣れなくては。愛情のための船のような存在になりたい。みなさんに謝罪したい」として、自分の行為を謝罪した。

本日(30日)付けの記事では、

暴力は全ての形において有毒で破壊的だ。私の行動は許容されるものではなく、言い訳もできない」。スミスさんは28日、「インスタグラム」にそう投稿した。ロックさんにも直接謝罪した。
授賞式ではロックさんが、脱毛症を公言しているスミスさんの妻ジェイダ・ビンケット・スミスさんの短髪についてのジョークとみられる発言をした。その直後、客席にいたスミスさんが舞台に上がり、ロックさんの顔を平手打ちした。
 アカデミー賞を運営する「映画芸術科学アカデミー」は28日に声明を出し、「アカデミーは昨晩のスミス氏の行動を非難する。正式な調査を始めている」と述べた。俳優らでつくる労働組合「米俳優組合(SAG-AFTRA)も、28日の声明で、スミスさんの行動は「受け容れられない」と批判。「この行動が適切に対処されるよう働きかけてゆく」とした。
(下線Takeo)

さて、私見を述べれば、ウィル・スミスの取った行動は、単純にいえば「正当防衛」ではないかと思うのだ。
この一件については、わたしは、上記の2つの新聞記事以外の情報を一切持たないが、ここにはウィル・スミスの「平手打ち」という「身体的な暴力」のみが喋々されていて、司会(?)の三流コメディアン、クリス・ロックという者の「言葉による暴力」については一切触れられてはいない。「禿頭(とくとう)症を嗤う」という極めて悪質な言葉の暴力に対し、スミスの「平手打ち」は比較にならないほどに「わるいこと」なのか。

またスミスの公式な謝罪についても、個人的には納得がいかない。

そもそもわたしは「暴力は全ての形において有毒で破壊的だ」という考え方に与しない。
ここにも何度も書いてきたように、わたしは時と場合によっては(例えば9.11のような)「自爆テロ」に共鳴するし、所謂「刺客による暗殺」を支持する者だ。

下から上に向けての、弱者から強者に向けての、被差別者から差別する者への暴力は「正当な怒りの行使である」というのがわたしの持論だ。


スミスの取った行動は正しかったと思っている。けれども、妻を嘲われたことに対して怒りを爆発させた行為を、その後の謝罪によって、自ら否定している。「自分は間違っていた」と。
これをわたしは「堕落」と呼ぶ。同時に自分の妻に対する裏切乃至背信行為であると。

今更言うまでもなく、事件後のスミスの一連の言動は、「大人としての」「名のあるハリウッド俳優としての」「オスカー受賞俳優としての」冷静な判断に基づいたものだ。
会場で、愛する妻を揶揄され、前後を忘れて壇上に駆け上り、愚昧なる司会者を「ぶん殴った」「生身の人間ウィル・スミス」ではない。

そもそも、彼のことは、顔と名前を知っていて、一本くらい作品を観たことがあるかもしれないが、特に関心のある俳優でもない。けれども、仮にわたしの敬愛する者が、今回のウィル・スミスの一連の行動のような「怒りという愛情の一形態に身を任せた真の人間」の姿から、「すべての暴力を憎む良識ある社会人」への変節を遂げるのを目の当たりにしたら、わたしは彼・彼女に愛想尽かしをするだろう。

わたしはウィル・スミスは「愛情」よりも、自己保身に走ったと受け取っている。




「やったのは彼らだが、そう仕向けたのは私たちだ」(9.11について)
ー ジャン・ボードリヤール

「多くの人は「何をやったか」だけをみて、「なぜやったのか?」をみようとしない」
ー『雨あがる』山本周五郎







2022年3月30日

見果てぬ夢・・・

Sunset (Brothers), 1830-1835, Caspar David Friedrich. German Romantic Painter (1774 - 1840)
 - Oil on Canvas -

*

ドイツロマン派を代表する画家、カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの『落日』
同じ「ロマン主義」の画家でも、英国のターナーの夢幻的な趣、フランスのドラクロアの力強いパッションに比べて、極めて静謐な絵を多く残しています。


「人生は、それを分かち合う者がいなければ意味がない」

これはわたしがまだ20代後半の頃、テレビで観たアメリカのドラマの中で使われていた台詞です。当時から人生の孤独に呻吟していたわたしにとって、とても共感できるセリフでした。
この言葉を初めて聞いてから30年近く経った今でも、当時と同じ気持ちを抱いています。

けれどもわたしは、天涯孤独な人の人生を、「自分の人生の時」を共有できる誰かを持っている人の人生に比べて、無意味であるとも、無価値だとも思ってはいません。

断片的であっても、人生を分かち合える人がいれば・・・
これはあくまでも、孤独であることに疲弊した、独りであることを運命付けられた、わたしという人間の、極個人的な「理想」であり「見果てぬ夢」でもあるのです。








 

2022年3月23日

みんなおいで!

Kommt alle her!, Kontakt (Everyone Come Here!, Contact), 1970, Les Krims. born in 1943


おお、生まれながらに孤独であることを運命づけられた者よ

きみの声に耳を貸す者はいない

わたしはきみを抱き締める かたく




 

2022年3月20日

宛先のない手紙

生きるということはほんとうに、つらく、かなしいことですね。
そしてわたしには「生きる」ということがどういうことなのかすら、わかりません。

いったんは逃げ出したここにまた戻ってきたことは誤りだったのでしょうか?
けれどもわたしは立川では一歩も、文字通り一歩も外に出ることができませんでした。
もしわたしの「誤り」をいうのなら「生まれてきたこと」がそもそもの誤りでした。

では「誤りではない生」とは例えば誰のことを言うのでしょう?
それもわたしにはわかりません。
けれども生まれてきたことで誰かの人生を犠牲にしているのなら、その生はやはり「誤り」なのではないでしょうか?

どんなに周囲に迷惑を掛けても、当人が楽しく生きているのであれば、それはそれで生まれてきた意味はあるのでしょう。けれども、わたしは生きていることが少しもたのしくない。ただただ無為徒食の日々を、人に支えてもらって維持している。どこかおかしくはないでしょうか。

多くの人は何らかのかたちで「働いて」います。
「はたらくこと」これもわたしのわからないことのひとつです。
働いている人誰もが、歓びと生きがいを持って日々仕事に向かっているとは思えないのです。「こんな仕事いやだなあ」と思っている人もいるのだと思います。では何故彼ら・彼女らは、「嫌なこと」を止めないのでしょうか?
「生きていくため」?
何故「生きなければならない」ということが大前提として存在しているのか?わたしには昔から理解できませんでした。
「したくもないことをしてまで生きつづける意味」とはなんでしょう?
わたしがいまもなお生き続けているわけは、簡単には死ぬことができないからという間の抜けた理由でしかありません。
簡単に死ねないのは誰しも同じこと。けれども、それを行った人たちが大勢いる。
わたしは自らの意志の弱さを愧じるばかりです。


辺見庸は、アメリカの哲学者ジュディス・バトラーの「生は特権化された人々の権利に過ぎなくなる」という言葉に呼応して、現代を眺め、
「バトラーの言う通り、「生は特権化された人々の権利」になりさがってしまったのか。
と書いています。けれども、もとより「生とは特権化された人々のみの権利」なのではないのでしょうか?
わたしにしてみれば、既に20代の頃から感じていたことを、今更事々しく嘆いて見せる辺見庸の気持ちがわかりません。

わたしには「生を享受できる特権を持つ人」とは誰なのかを言うことができません。
ただわたしはその一人でないことだけは、確信を持っていうことができます。


わたしは「救い」を求めています。こころの底から「誰かわたしを救ってください!」と、声にならない叫びをあげています。けれども、誰が、どのようにわたしを救ってくれるのでしょう。
わたしのくるしみは、すべて「わたしがわたしであること」から来ているのではないでしょうか。
「わたしがわたしのままで」救われるということを考えた時に、「救い」はどうやら「生」の方角にはないように思えるのです。

「わたしアスパラガスが嫌いでよかった。だって、もし好きだったらたべなきゃならないでしょう。そんなのイヤだもの!」というジョークをふと思い出しました。
わかりにくければ「アスパラガス」を「現代社会」に置き換えてもいいでしょう。

精神科にかかる意味も分かりません。精神医療では、ひょっとしたら、大嫌いなアスパラガスを好きにさせてくれることもできるのかもしれません。(それとても相当の名医でなければ不可能なことですが。)しかしわたしは「アスパラガス」を好きになりたいとは思っていないのです。
なぜって、好きになったら食べなくちゃならないから。

そう考えてみると、「自分がありのままの自分でありながら苦痛なく生きられる」そのような人々こそが、「特権化された人たち」と言えはしないでしょうか?


わたしは救いを求めています。けれども、それはやはり「生」の方向には無いようにしか考えられないのです。だとすれば精神医療も、福祉もわたしの救いとは無関係ということになります。

ではこのくるしく、そして深い悲しみに満ちた人生からの救いは何処を捜せばいいのでしょうか・・・

書こうと思っていたことの半分も書くことができませんでした。
また書きます。

お読みくださりありがとうございました。

不一


追伸

目の状態がよくありません。今朝も鏡を見ると、両目がそれこそ文字通りウサギの目のように真っ赤に充血しています。これは今に始まったことではなく、昨年3月の右目緑内障の手術以降です。けれども、かかりつけの眼科医は、この充血の原因を「わからない」と言います。その医師はわたしの目を手術した御茶ノ水の眼科病院の出身ですが、わたしの右目を手術した当の理事長も、「(目)薬の副作用じゃないですか・・・」と曖昧な返答をするばかりです(でした)。
目の状態が悪化している。けれどもきちんと診察できる医師がいない。そのこともわたしの絶望と厭世観をいやまして深めるのです。








プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラブ... 

Paris. 1951, Lutz Dille  
パリ 1951年 写真 リッツ・ディル


Percy Mayfield - Please Send Me Someone To Love (1950) 

プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラブ 
パーシー・メイフィールド 1950年







ロバート・メープルソープ フラワーズ

 Poppy (1988)

Calla Lily (1987)

Calla Lily (1984)

Leaf (1987) 

Tulip (1985)

Flowers (1983) 

Poppy (Green)  (1988) 

Tulips (1982) 

Tulip (1984) 






 

2022年3月19日

狂人の疑問

 わたしは下の投稿が、これまでわたしの書いてきたすべての文章すべての言葉同様に「誤り」乃至「おかしい」ことを知っている。

けれども、「汝自身を否定すべからず」「汝自らを愛せ」という、誰しもが疑うことのない、国境を越えて遍く人類全体に行き渡っているかのように見える「戒律」は、いったいいかなる哲理から発したものであるのか、わたしにはわからないのだ。